大吉商店は、永谷大吉(通称だいきちじいさん)が牛馬商として明治29年に創業して以来、一貫して近江牛に携わってきました。
当時の仕入簿には、但馬まで牛の買い付けに行っていたことが記されています。
当然、車などなく、徒歩による牛の移送は大変でした。
当時の通行証として牛肉行商札などが残っています。また、左の写真は牛の化粧回しで、永谷大吉と但馬の血統牛が写っています。
上の大きな写真は明治時代の店舗でした。「めん肉」と後ろの方で書かれているところで、昔から雌牛にこだわり、但馬牛の血統にこだわっていたことがよくわかります。
昔の牛肉は、決められた価格で売っていました。
いまのような100g表示ではなく、貫目表示(3.75kg)でした。
ロースも一等、ニ等といった区別で販売しハカリも左のようなハカリを使用し、冷蔵庫も氷で冷やすものでした。
お国入り 氏なれや早く嫁ぎたい近江の国へ 滋賀は水よし糧もよい
育ち 小さい中から琵琶湖の水で 鍛え上げたる近江牛
東都上り 近江嬉しや装い凝らし やがて旅立つ江戸の町
實物拝見 色も鮮やか鹿の子の肌肉 琵琶の水浮き模様
味は飛びきり 氏も育ちも論より證據 食べておみやす 近江牛
上記の逸話は近江牛の一生を物語ったものです。
『血統の良い但馬の仔牛を嫁がせ、滋賀の豊かな自然と恵まれた風土、うまい水で大切に育てる近江牛。
そのお肉は、びわ湖の水浮き模様のごとく、白色のつやのある脂肪で美しいかのこ(霜降り)が特徴でやわらかで滋味だ』といった内容です。
日本最古の歴史を持つ近江牛の伝統は、今も大切に受継がれているようです。
蔓牛(つるうし)と読みます。その由来は植物の蔓をたぐりよせると、その枝葉から末節まで一本が明確になるように、その牛の血筋が明らかで格別優れた牛の血統を「つる牛」と確定しています。
一口に但馬牛といっても、その血統は5系統あります。「あつた蔓」「ふき蔓」「よし蔓」を代表に「やぎたに蔓」「いなきば蔓」の5系統です。いずれも豊かな水系に密接に関わりながら、その地域独特の風土と、先人たちから培われた伝統と技術で成り立っています。
大吉は、但馬牛の5つの血統にこだわるのはもちろん、その血統の中でもとりわけ優れた親牛を持つ子牛を仕入れています。
天正十八年(1590年) | 豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた小田原攻略の際に、高山右近が牛肉を蒲生氏郷と細川忠興に振舞われた記録が残っています。 |
---|---|
元禄年間(1687年) | 「生類憐れみの令」の時代に、幕府の陣太鼓に使う牛皮を献上するのがならわしであった彦根藩のみが、唯一公式に牛の取扱いが認められた藩であり、この牛皮をとった後の肉を用いて味噌漬けを考案しました。これを「反本丸」(へんぽんがん)と証した養生薬として、当時、公然と食べることのできなかった牛肉のおいしさを「薬喰い」としてひそかに堪能していました。 |
安永年間(1771年) | 彦根牛肉は諸侯に贈られるようになり、やがて天明年間(1781年)には牛肉の味噌漬けが将軍家に献上されました。 |
寛永年間(1788年) | 乾燥牛肉(今で言うビーフジャーキー)を始めこれも将軍家に献上されています。 |
安政年間(1853年) | 井伊大老が牛肉の献上を禁止します。それでも彦根魚屋町の勘治が彦根牛の看板を江戸であげ開業します。 |
慶応年間(1866年) | 江州彦根藩の牛肉が薬用として売られ、「牛鍋屋」が開業します |
明治二年(1869年) | 東海道を陸路17~18日かけて、横浜まで牛を追い外国人との直接取引が始まります。 |
明治四年(1871年) | 文明開化の中「おしなべて牛鍋食はねば開花不進奴」とうたわれ、かの福澤諭吉先生も肉食と牛乳を大いに奨励。肉食は日本の常識となってきました。 |
明治十二年(1879年) | 竹中久次が東京と京都に、牛鍋屋「米久」を開業。本格的な全国進出を果たした近江「牛」商人となります。 |
明治十七年(1884年) | 神戸港から海軍により牛を東京に出荷。 |
明治二十三年(1890年) | 東海道本線開通により、近江八幡駅から、枝肉出荷により『近江牛』の名称が定着。全国ブランドとなります。 |
明治二十九年(1896年) | 永谷大吉が牛馬商として「大吉」を開業する。 第二次大戦後も、近江牛は数々のコンクールや共進会で輝かしい賞を数多く受賞しています。 |
昭和二十九年(1954年) | 日本橋白木屋屋上で「近江肉牛の公開せり市」が行われ、大宣伝会は大盛況でした。 同じ頃、牛鍋のルーツのすき焼きも、庶民のご馳走として定着し、坂本九の「上を向いて歩こう」が初の海外輸出曲「SUKIYAKI」として世界的ヒットを記録しました。 |